崖
作:もんぺち
発案:ネフェレー
勤続36年のベテラン個人タクシー運転士の吉田武雄は、毎日朝から張り付いている駅で女性客を乗せ、暗い山道を走行していた。
時刻は夜の10時。女性客は自宅へ帰るらしく、しかし仕事で遅くなってしまったこの時間ではこんな山の中までバスが来るはずもなく、タクシーを利用して帰ることにしたらしい。
「大変ですね。こんな夜遅くまで」
武雄はいつものようにお客へ愛想よく話しかける。元々話しベタだった武雄は、タクシーの運転手をはじめた頃こそぼそぼそ話したり、どもったりして客に不快に思われることもしばしばだったが、長年同じようなことをしているとそれも自然となくなってしまうもので、いまでは「ユーモア溢れる話し上手なたけっち」とのコミカルな愛称で後輩からも慕われていた。
武雄自身も後輩が慕ってくれることは良いことだと思っていたので、それほど不快には感じず、むしろ後輩が自分の後についてくれることの優越感に浸っているほどだった。
「……はい。どうにも最近仕事がはかどらないんです。これからバスに遅れることが多くなるかもしれないんですよ……」
女性客は苦笑い。
「そうなんですか。タクシーを使うときにはまた声を掛けてくださいね。特別にメーター下げますよ」
「まあ嬉しい。もうバスには乗らないかもしれないです」
武雄の計らいに、女性客の頬がほころぶ。
武雄が後輩から慕われているのには、もうひとつの理由がある。
前に、こんなことがあった。
武雄がタクシーを川沿いで走らせていると、川からバシャバシャと威勢のいい水しぶきの音が聞こえてきた。窓は開いていたが、エンジンは掛かっていたのでそれよりもその大きい音を発しているもものに武雄は不審に感じた。
タクシーを止め、後部座席に座っている客に言う。
「すみませんお客さん。ちょっとお待ちいただけますか?」
「……え? あ、はい。特に急いでいるわけでもないので構いませんよ」
そう返事を聞くと、武雄は車外へ出て音のする川へと数歩歩いた。
すると、そこには小さな子どもが―――――
武雄は考えるよりも前に川に飛び込んでいた。勇敢にも子どものもとまで泳ぎ、子どもは無事に救助されたのだった。
その後、救助された子どもは救急車で病院へ搬送され、後日命に別状はないとのことが武雄へと伝えられた。
「ふぅ……安心した」
その瞬間に武雄はほっと胸を撫で下ろす。
武雄は正義感が強いのだ。目の前で困っている人がいたら黙っていられないタイプなのである。
もちろんお客を待たせたことで上司から注意は受けたが、武雄にとってそんなことはどうでもよかった。人が助かった、ということが何よりも嬉しかったのだ。
そんな性格もあってか、武雄は後輩からの信頼も厚かった。
20分ほど走っても、目的地の自宅には到着しなかった。
「なかなか遠いですね」
「……はい。通勤には往復2時間ほど掛かります」
「大変ですね。私なんて通勤なんてないも同然ですから、楽ですよ」
武雄は個人のタクシー運転手であるため、このタクシーとは何十年も仕事を共にしている。
もはや相棒のようなものだ。武雄にとってタクシーはなくてはならない体の一部にまでなっている。
「……ん?」
さらに5分ほどタクシーを山道で走らせて、武雄は暗闇の中に何かが照らし出されていることに気が付いた。
「女……の人?」
「どうかしたんですか」
女性客が武雄に尋ねる。
「いやね……女性が、道の脇に立ってるんですよ」
「え……?」
女性客が目を向けると、確かに数メートル先には少し俯き前のめりになっている、白いワンピースを着た少女が道路の脇に立っていることに気づく。
「こんな時間に……どうかしたのかしら」
「ちょっと止めますよ」
「構いませんよ」
武雄のうずいた正義感に火がともった。反射的に放った武雄の言葉に、女性客は快く応じる。
キキッーとブレーキをかけ車を止めると、武雄は白いワンピースを着た少女の目の前で後部座席のドアを開く。するとワンピースの少女は何のためらいもなく乗車してきた。
「お客さん、どうかされましたか?」
「…………」
「こんな暗い中にひとりでいたら、私だったらすぐに泣き叫んでしまいますよ」
「…………」
何も言葉を発しないワンピースの少女に、武雄は女性客と共に戸惑いつつも、
「……とりあえず出発します」
時間も時間なので、とりあえず車を走らせた。
気難しいお客なのかもな、と思いつつも目的地を訊かなければどうしようもない。客からは見えないだろうに、いつもの営業スマイルで武雄はもう一度少女に質問する。
「お客さん、どこまで行きますかね?」
「……やま」
そう、単語だけを発した。素っ気無い態度だった。まるで、そんな些細なことはどうでもいいよといわんばかりに。
「ははは。ここ、山ですがね」
武雄は少女なりのジョークだと思い、感じよく笑ってみせた。こんな感じにさりげなくジョークを言ってくる客もいるものだ。
「…………」
武雄の意思とは反して、ワンピースの少女の反応は皆目見られなかった。
武雄が見る限り、そのワンピースの少女はただひとつの単語だけしか話せなく、言葉が紡げないような年齢には見えなかった。ついでにジョークがわからない年齢にも見えない。見た目からして若いには若いのだが、少なくとも十代だろうといった印象を受ける。
そう考えたのは武雄だけではなかったようだ。
「どうしてあんなところにいたの?」
女性客が隣にちょこんと座っているワンピースの少女に尋ねる。ワンピースの少女カーブする道で揺られているタクシーにゆらゆら揺られながら、
「…………」
やはり何も答えなかった。
「……どうされます?」
女性客が武雄にお手上げだとばかりに尋ねる。この女性客もなかなか世話焼きな人だった。
「……とりあえず、お客さんをお家まで送ってから警察に届けることにします。何か事情があるのかもしれないので無理に喋らせるのもかわいそうですし……」
「……わかりました」
女性客は納得し、再び腰を落ち着けた。
長年タクシー運転手をしている武雄にも、今回のケースは初めてだった。
酔っ払いやチンピラを乗せてしまい行き先を訊けなかったことは何度かあったが、何も喋ってくれない少女をどうするかなんて武雄の経験にはなく、当然ながらマニュアルにも載っていない。
目的地の見当がつかない、処遇がわからないとなれば警察に相談するしかないと武雄は思ったのだ。
それから5分ほど経っただろうか。
その間に女性客は何度かワンピースの少女に話しかけていたが、武雄はそっとしてあげようと話しかけはせず、いつと変わらぬ落ち着いた運転をしていた。
さぁそろそろ到着かな、と疲れながらも最後まで職務をまっとうしようとしていた、そのとき。
「運転手さん」
ワンピースの少女が、武雄がタクシーを運転している運転席の真後ろ、後部座席で武雄に話しかけてきた。
「お、ようやく話す気になりましたか」
「どうかしたの?」
ワンピースの少女と自分たちとの間に会話するという進展があったことで一斉に興味を示す武雄と女性客。ワンピースの少女の次の言葉を待ち、押し黙る。
「…………」
数秒間の再びの沈黙。エンジン音とタイヤが小石を踏みつける音とタクシーが風を切る音だけがあたりから聞こえた。
静寂。昼間とは違った、夜中だけが許された特別な静寂。
民家の明かりは消え、住民はすでに寝静まっているようだった。
ワンピースの少女はそっと腕を真っ直ぐ前に向け、
「わたし、あの」
ゆっくりと言葉を紡ぐ。ひとつひとつの言葉を噛み締めるかのように。
「ん?」
武雄が耳を澄ませる。少女の声はいまにもエンジン音に掻き消されてしまいそうだった。
「どうしたの?」
女性客も同じように耳を澄ませていた。少女の隣に座ってはいるが、それでもぼそっとした声しか聞こえなかったからだ。
「カーブ、の、じこ、で」
喋りながら、人差し指でタクシーのライトが照らし出す前方のガードレールが張られているカーブを指す。
「 し ん だ の 」
ワンピースの少女はぐぎぎ…ぐぎぎぎぎ…と音を立てながらゆっくりと女性客の方へ首を回す。
「…………!」
女性客は少女の顔にあるふたつの蛇にも似た眼球を見て、たじろぐ。それは少なくとも人間持つような目ではなかった。
「……え? なんだって?」
1テンポ遅れて、武雄はワンピースの少女を見据え、目を丸くした。
―――――死んだ。自分は死んだ。そこのカーブで。
確かに少女はそう言った。そう言ったように聞こえた。
武雄の顔がみるみるうちに真っ青になる。一瞬にして全身に自分でもわかるほどの鳥肌が立った。
それと同時に女性客の絶叫がタクシー内にこだまする。
「う、運転手さん!前!前見て!」
死に物狂いで何かを訴えかけてくる女性客。
武雄が少女から目を離し、慌てて前に向き直った瞬間―――――
「きゃああああああははああぁぁぁははあはあああああああははあぁぁああああああああああぁぁははあぁあああああぁぁぁぁあっはははあああああああああぁぁぁあああああああああはははぁぁぁぁぁああはあはははあああああはあああああああああ」
武雄のものでも女性客のものでもないその声は、タクシーが崖を転がり落ちる音と、その後聞こえた爆発音とともに奈落の底へと消えていった。
翌日、昨夜の爆裂音で通報があった崖下のタクシーが引き上げられ、中にいた武雄と女性客が見るも無残な姿の遺体で発見された。
車はガードレールを突き破り、ブレーキ痕すらなく、崖から転落していた。現場検証と警察のキャリアから、事故の原因は運転手のわき見運転、とされた。ブレーキをかけなかったその他の原因が見つからなかったのだ。
また、現場にはタクシーの前方部に設置されていたビデオカメラのテープ部分がほとんど損傷もせずに残されていた。録画されていた映像を見てみると、武雄が何もない暗闇の道で停車し、ドアを開けそのまま閉め、その後タクシーが崖から転落するまでの短い間、武雄と女性客のまるで他に誰かがいるかのような口ぶりで何もない後部座席の空間に話しかけている映像が撮影されていた。
この崖での死亡者は合計3人になったのだと、近所の駐留所官が話していた。
END